ベトナムへの日本製原発輸出は実現するか?
<はじめに:過去の経緯>
日越原子力協力関係は、過去20年来専門家レベルで地道に続けられてきたが、近年急速な経済発展に伴いエネルギー・電力需要の飛躍的な拡大が予想される中で、ベトナム政府が原子力発電の導入を正式に決定した2008年ころから急速に具体化し始めた。その結果、日越両政府は、2010年10月31日、訪越した菅直人首相(当時)とグエン・タン・ズン首相との間で、ニントゥアン省ビンハイ地区に原子力発電所を2基建設する計画について、日本が協力のパートナーとなることが合意された。この日越合意の直前には、露越間で、同じニントゥアン省フォックディン地区にロシア製の原発2基を建設することが合意されていた。これら原発は、計画通りに行けば、2021年から数年間の間に続々と運転開始となる見込みであり、ベトナムは、ASEAN諸国の中で最初の原子力発電国となる。それだけにベトナム側の期待は大きい。
私事ながら筆者は、ベトナム戦争が最も激しかった1966~68年に外交官としてベトナム(サイゴン)に勤務して以来、約半世紀にわたりベトナムの経済やエネルギー問題に関心を持ってきたが、とくに1970年代後半に外務省の初代原子力課長を務めた関係で、退官後も一貫して日越原子力関係の推進に尽力してきた。実は、上記のズン・菅会談の翌日東京を発って約10日間、民間の原子力専門家チームの団長として訪越し、ニントゥアン省の原発建設サイトなどの視察も行った。この視察旅行の概要は、本紙(時事通信ベトナム便)の2011年1月 ~ 日号に5回にわたって連載されているので、関心のある方はこの機会にぜひ再読していただきたい。
<福島事故の影響:動揺する日本のエネルギー政策>
ところが、「好事魔多し」の譬えのように、この連載が終わってわずか2か月後の3月11日、突如東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故という未曾有の大惨事が発生。その結果すべてが暗転してしまった。東京電力は、世界最大の優良電力会社から一転して破綻、事実上国営化され、経営陣も一新された。莫大な原子力損害賠償義務を履行するために、不要不急の事業活動からはすべて撤退することになった。原子力輸出についても、東電は3.11事故の直前までは非常に積極的に取り組んでおり、とくにベトナムへの原発輸出については主導的役割を果たしていたが、今やほぼ完全に脱落した。まさに「親亀がこけた」状態である。
実は、菅・ズン合意の直前の2010年10月半ばには、ベトナムへの原発輸出を実現するために東電など電力会社と東芝、日立製作所、三菱重工などの原子力メーカーによる"オールジャパン"の「国際原子力開発会社」(JINED)が設立され、本格的な業務に乗り出していたが、3.11以後は同社の武黒一郎社長(元東電副社長=原子力担当)は、福島事故後の緊急対策で忙殺されるなど、原発輸出業務には時間を割けない状況となった。
それでなくても、福島事故後は、反原発・脱原発を求める世論が全国的に高まっており、それを反映して政府や与野党の政治家の間でも、2030年までに再生可能エネルギーや省エネにより「原発ゼロ」を実現することを目指した新しいエネルギー政策を策定するべきであるとの意見が大勢を占めつつある。他方、経済界を中心に、原子力発電を引き続き維持すべきであるとする意見もあるものの、本稿執筆中の現時点(8月末)では、日本のエネルギー政策が今後どちらの方向に進んでいくか全く予断を許さない厳しい状況にある。
<日本側の対応の遅れ、苛立つベトナム>
このような日本国内の動きは、ベトナム側にも逐一伝わっており、当然ながら、今後の日越原子力関係に対する不安を募らせている。同じニントゥアン省フォックディンで2基建設することが決定しているロシアは、すでに着々と準備作業を進めており、日本側の対応の遅れが余計に目立っている。
(続く)