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ヤルタ密約67周年に想う

  • 執筆:金子熊夫
  • 掲載日:2011年2月11日
  • 掲載紙: 電気新聞(掲載せず)


      ヤルタ密約67周年に想う           

                                金子 熊夫
 
 本日、2月11日はヤルタ会談の67回目の記念日である。クリミア半島の保養地ヤルタで、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長の3巨頭が会談した歴史的な日である。
そこで、ドイツの占領政策やヨーロッパの戦後処理、新しい国際連合の枠組みなどの基本方針が合意された。この3カ国にフランス、中国を加えた5カ国を、拒否権を持つ常任理事国とする安保理体制もここで決まった。その意味で第2次大戦後の国際政治の原点であり、それは基本的には67年後の今日も厳然として存続している。
 ヤルタ会談でもう一つ重要なのは、言うまでもなく、この会談の最中にルーズベルトとスターリンが対日戦争の進め方について密談し、「密約」を結んだことだ。当時、ルーズベルトは病身で、記念写真を見ると死相が漂っている(事実僅か2か月後の4月12日に死去)。老衰して往年の覇気を失っていた彼は、対日戦をできるだけ少ない犠牲で一日も早く終わらせたかった。勿論この時点では原子爆弾が完成するかどうか確信は持てなかった。
そのため彼は、ソ連がドイツ降伏後2,3か月以内に参戦し背後から日本を攻撃することを強く求めた。だが、日ソ中立条約の有効期限内(1946年4月まで)であることを理由にスターリンが躊躇する振りをすると、ルーズベルトは参戦の「餌」として、スターリンの要求を大幅に呑んだ。すなわち、スターリンは、ドイツ分割占領方式にならって、日本占領についても、日本の東半分、少なくとも北海道の占領を認めてほしいと注文を付け、ルーズベルトは概ね黙認したとされる。
ところが、その5か月後、待望の原爆の完成で急に状況が変わった。後任大統領のトルーマンは、ポツダム会談の開幕直前にニューメキシコ州での原爆実験成功の電報を受け取るや、もはやソ連の応援は不要と判断したが、時すでに遅く、ソ連は広島原爆の3日後、8月9日未明に日本に宣戦布告、ソ連軍は大挙して満州に侵入た。
日本は8月14日にポツダム宣言の受託を通報し無条件降伏をしたが、ソ連軍は、それにお構いなく進撃を続けた。そして、東京湾内の「ミズーリ」艦上で重光全権が降伏文書に署名した9月2日までの僅か2週間の間に、ソ連軍は樺太と千島列島を一気に占領し、あと一歩で北海道上陸というところで、米国にストップをかけられた。その「埋め合わせ」としてスターリンは日本軍将兵約65万をシベリアに連行抑留し、強制労働させた。それ以後の日露関係の不快な歴史は今ここで詳述するまでもない。
今日ロシアが北方領土4島を占領したまま、頑として返還しないのは、まさにヤルタ密約があるからで、日本が関わり知らぬ協定なのに、「日本は戦争に負けたのだから、文句を言うな」というのがソ連、現ロシアの一貫した立場だ。悔しかったらもう一度日露戦争をやって、勝つ以外にないが、それができないから困るのである。この辺の心情を日米開戦時と終戦時の外相東郷茂徳は辞世の句でこう吐露した。
「いざ児等よ戦う勿れ 戦はば
勝つべきものぞ 夢な忘れそ」

さて、その北方領土問題だが、ソ連崩壊直後の苦境時という絶好のチャンスを取り逃がした今となっては、4島返還の可能性はまずない。一方ロシアは「実効支配」の実績を着々と積み上げている。ここで意地を張って臥薪嘗胆、百年河清を待つよりも、発想の大転換を図ってはどうか。
例えば、長年の懸案だった日露原子力協定がようやく昨年末国会で承認され近く発効する予定だが、この機会に日露協力して、北方4島の1つに高レベル放射性廃棄物処分場を造り、共同運営するというような構想を考えてもよいのではないか。もし火山層など地質的に不適当なら、代わりに樺太(サハリン)でもよいだろう。
日露では、このほかの様々な原子力分野の協力が考えられるが、とくにロシア側は、今後アジアで原子力進出を図る上で日本の協力を必要としており、日本にも様々なメリットが期待できる。相手が欲するところで協力することが最も効果的なはず。急がば回れということもある。

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