「脱炭素社会」実現への確かな道、再エネと原子力は〝共存共栄〟できる!(前篇)

脱炭素への対応が「待ったなし」の状況下、原子力政策が曖昧なままでは日本の安全保障が危うい―。かつて「かけがえのない地球」を考案し、国連で環境外交を担当した筆者が、日本の現状を憂い、今後進むべき道を提示する。

 菅義偉首相が2020年10月26日、衆参両院の本会議で行った初の所信表明演説で、「グリーン社会」の実現を大きく掲げ、「2050年までに温室効果ガス排出量を全体としてゼロを目指す」と宣言したことは、確かに画期的な政策の表明と評価できる。

 ここに至るまでの背景は既にある程度知られているが、念のために簡単にまとめれば次の通りだ。すなわち、2019年末、スペインのマドリードで開催された国連気候変動枠組条約第25回締約国会議(COP25)に初めて出席した小泉進次郎環境大臣が、最初の記者会見で「気候変動問題はセクシーに議論すべきだ」等の不規則発言をして物議を醸した。

 さらにその後のNGOとの会見でも、脱炭素化の具体策について質問されたのに明確に答えられず、批判の集中砲火を浴び、おまけにNGOから「化石賞」なる不名誉な賞を授与された。

 こうした予想外の「洗礼」にショックを受けたのだろうか。同大臣は帰国後、従来対立関係にあったエネルギー担当の梶山弘志経済産業大臣と、菅新内閣の同僚として緊密に協議した。その結果が、今回の政策宣言となったものと考えられる。 

 COP26は、コロナ禍のため1年延期となり、2021年11月に英国のグラスゴーで開催される予定である。日本政府はそれに向けて、意欲的な削減目標を打ち出し、これまでの「周回遅れ」という悪評を一気に払拭し、今後のCOP外交における存在感を高めようという狙いがあるのだろう。

 だが、問題は、今後様々なイノベーションが想定されるにしても、果たして、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを拡大するだけで本当に目標達成が可能かどうか、大きな疑問符が付けられていることだ。端的に言えば、原子力発電を大幅に復活させることなしには、この目標達成は到底不可能と考えられるからだ。

なぜ原子力の重要性を言わないのか

 ところで、その原子力について、菅首相は、同じ所信表明演説の中で、「安全最優先で原子力政策を進めることで、安定的なエネルギー供給を確立する」と述べるに止まっている。安倍前政権に比べればわずかに半歩前進のようにも聞こえるが、菅政権が「50年までに全体としてゼロ」を本気で目指すためには原子力の復活が欠かせないことを明言しなかったのは遺憾である。

 担当の小泉環境相としても、頭ではそのことは十分わかっているはずだが、環境相という立場上、口が裂けても原子力の重要性を言いたくないのかもしれない。事実、環境省の事務方からは、「大臣は個人的にはよく理解していても、大きい声で言いたくないようだ」という声が漏れ伝わってくる。それを言ったら環境省のホームページはたちまち炎上するに違いないだろう。

 政治家、特に与党国会議員たちも、原子力に理解のある人は意外にも多いようだが、それを口にした途端に地元有権者の不評を買い、選挙で不利になるからというので、敢えて勇気を出して発言する人は少ない(ただ、最近、自民党内に、二階俊博幹事長を本部長とする2050年カーボンニュートラル実現推進本部が立ち上がり、年内をめどに具体策をまとめようという動きがあり、注目される)。

再エネVS原子力 不毛な二項対立

 東日本大震災以降、日本では、再生可能エネルギーか、原子力発電か――という二項対立的議論が延々と繰り返されてきた。

 再エネ推進派は福島第一原子力発電所事故などによる原子力発電の危険性を訴え、原発推進派はベースロード電源にはならず安定性に欠ける再エネに軸足を移すのは危険、だから原子力が必要不可欠だ、という。

 いずれの主張も双方の立場からすれば「正論」である。だが、これでは、双方の主張が真っ向から対立し、不毛な「ゼロサムゲーム」が繰り返されるだけだ。

 この間国内では、有効な処方箋を示せず、福島第一原発事故から10年という月日が虚しく流れた。事故の後遺症は予想以上に深刻で、恐怖心に取りつかれた民心は原子力から益々離れていき、大学で原子力工学を専攻しようとする学生もすっかり減ってしまった。このままでは、せっかく60年以上の歳月をかけて営々と築き上げてきた、世界屈指の日本の原子力技術も、継承者がいないまま、あえなく朽ち果てていく可能性すらある。


原子力関係の学科・専攻の入学者は平成の30年間で半減した(出所)文部科学省 科学技術・学術審議会 研究計画・評価分科会原子力科学技術委員会の資料を基にウェッジ作成

 2030年に原子力20~22%という政策目標の達成は今や風前の灯火だ。この目標の達成には少なくとも30基程度の原発が必要だが、3・11後の10年で再稼働に漕ぎつけたのは僅か9基。すべて西日本の電力会社が所有する加圧水型軽水炉(PWR)だ。しかも折角再稼働したその9基も、原子力規制委員会の世界一厳しいと揶揄される、というより、そもそも必要性も疑問符がつく対テロ対策「特定重大事故等対処施設(特重施設)」の建設が期限内に完成しないという理由で、運転停止に追い込まれている。主に東日本の電力会社が所有する沸騰水型軽水炉(BWR)に至っては、本稿執筆時点(20年11月末)で、まだ1基も再稼働していない。有体に言って、現在日本の原子力発電は瀕死状態で、存亡の危機にあると言っても過言ではない。

世界は脱原発一色ではない

 一方、世界に目を転じると、気候変動と自然災害の激甚化に伴い、地球温暖化防止の必要性は今や日常茶飯事のように普遍化した。地球上の温度を産業革命前の水準から1.5℃以下に抑えようという共通認識の下、COPを中心とする国際的対策の進展ぶりには近年目覚ましいものがある。その結果、地球環境保護と脱炭素化のために、太陽光、風力発電などが歓迎され、欧米先進国を中心に着々と各国の電源(グリッド)に組入れられつつある。

 ただ、広く指摘されているように、太陽光や風力は、天気、日照時間や風況に左右されるなどの本来的な欠陥があり、それを在来電源によっていかに補正するか、あるいは大型の蓄電池などの技術革新により、いかに経済性のある形で安定的に導入できるかという課題に直面している。

 そのような中で、諸外国の対応もさまざまである。ドイツのように福島第一原発事故をきっかけに脱原発政策を決め、再エネに軸足を置きつつある国もあれば、フランスなどのように、発電時にCO2を排出しない原子力を重視し、それによって70%前後の電気を確保している国もある。いずれにせよ、ヨーロッパにおいては、国際連系線の発達によって、電気の売買が自由に行われ、自国の再エネ電気が不足するときには隣国から輸入したり、供給過剰のときは隣国へ輸出して臨機応変に調整することができるという強みがあるのは事実だ。「島国」である日本はそうした地理的条件がないほか、安全保障上の理由でそうした対応は難しい。

 他方、世界第二位のエネルギー消費国である米国では、現在も約100基弱の原発が稼働しており、しかも大半が運転寿命が60年まで延長され、ごく一部では80年延長が許可されている。来年1月からバイデン民主党政権が誕生すれば、ある程度の政策変更があろうが、基本的には米国の原子力は将来も安定していると見る。

 世界最大のエネルギー消費国である中国でも、原発重視の立場がはっきりしており、大規模な新増設が着々と進んでいる。さらに、中国は、原発輸出にも異常なほど力を入れており、今後世界中で新設される原子炉の大部分が中国製という時代が来るのは確実と思われる。

日本は英国の失敗の轍を踏むな

 全く仮定の話だが、将来日本の原子力技術が死に絶えて、それでもどうしても原子力発電を必要とすることになった時、日本は中国製の原子炉を買い、それが故障した時は中国の専門家に来てもらうということになるだろう。それがどういう意味を持つか。その時になって後悔しているようではもう遅いのである。

 現に、英国は、かつて原子力の最先進国の一つだったが、1970年代に北海油田が見つかったことなどで原子力から手を抜いた結果、近年になって電力不足が予見され、それを回避するためにはやはり原発が必要となったものの、既に自国の原発建設能力が失われているので、フランスや日本に協力を求めたが、不首尾で、結局中国に資金も技術も頼ることになった。もっとも、コロナ騒動で英国でも対中警戒心が高まっており、中国依存路線を見直すべきだという意見が出始めているようである。以って、他山の石とすべきだ。

脱石炭か脱原発かどっちを優先

 このように、世界各国は、自らが置かれた環境に適合した形で、電源の最適化、多様化を図りつつ、エネルギー安全保障と脱炭素の同時達成を目指して懸命の努力を重ねているのが現状だ。

 その動きを加速させているのがCOPを中心とする気候変動対策で、欧州連合(EU)加盟国がいち早く再エネの拡大とそれによる脱炭素化の国際的な流れを誘導している。その中で、EU内では、環境重視・脱原発派のドイツと、原子力重視派のフランスが熾烈な戦いを展開しており、その結果原子力は存続するためには、環境保護に貢献することを自ら証明しなければならないという微妙な立場に追い込まれている。

 ただ、ここへきて、ドイツ自身にとっても脱原発と脱炭素化を同時並行的に実現させることは至難の業で、「脱原発」よりまず「脱炭素化」を優先させるべきだとする意見が増えている模様だ。3・11直後、突然脱原発に舵を切ったメルケル首相が間もなく引退する予定なので、案外そうなるかもしれない。

 いずれにせよ、世界各国にとって脱炭素化はいよいよ「待ったなし」の課題となっているわけだが、福島第一原発事故で原子力という本来最も頼りになる電源を大方失い、片翼飛行のような状態を続ける日本の場合、元々エネルギー資源小国であるだけに、状況は特に厳しい。日本ではエネルギー政策が国家安全保障上、最上位で語られることが少なく、エネルギー自給率も、3・11以前は、原子力を加えて辛うじて20%近くあったが、現状(2018年時点)では11%程度で先進国中最下位だ。

政治家は日本の窮状を率直に訴えよ

 こういう日本の実情は、経産大臣や環境大臣だけに任せないで、総理大臣や外務大臣がもっと対外的に発信すべきだと思う。決して日本は、温暖化防止の重要性を認識していないわけではなく、これまでにも1997年の京都におけるCOP3を主催するなど尽力してきた。それゆえに、「東日本大震災に起因する巨大津波で福島第一原発事故という大惨事を起こし、その後遺症もまだ十分癒えず、元々原発に代わり得るエネルギー資源が乏しいので、原発再稼働が本格化するまで今しばらく猶予してもらいたい。その代わり、日本の持っている環境技術や脱炭素化技術をフルに活用して途上国などへの協力を惜しまない」――といったことを縷々訴えるべきではないか。

 どうも日本の政治家は、国際的に格好をつけるのに忙しく、自国の弱みや窮状を率直に訴えたくないようだが、それはおかしいと思う。国家が真に苦境にある時は、交渉担当の外交官などだけに任せないで、政治家自らが国際舞台で理路整然、堂々と釈明に立つべきだ。戦前の国士的政治家はいまや絶滅してしまったが、新時代に即した知性と勇気があり、発信力を持った政治家の登場を待つや切なるものがある。

外交官として戦時下のベトナムへ

 さて、読者諸氏はここまでお読みになって、筆者がなぜこれほど強く原子力に拘るのか、そもそもどういう経歴の持ち主なのか疑問に思われたのではないかと思う。そこで、私事にわたって甚だ恐縮ではあるが、しばらく筆者の個人的経歴や体験談を述べることをお許しいただきたい。

 私はここ20年余り、特に福島第一原発事故以来、原子力問題で盛んに発言しているので、てっきり原子力技術の専門家のように思われているようだが、そうではない。大学では法学や政治学を専攻した典型的な文系人間であって、元々理数系は苦手であった。

 いわゆる安保世代の一員で、友人たちからは白い目で見られたが、1960年代初め外交官試験に合格して外務省に入省。最初の任地は米国・ワシントンであったが、実際には語学研修ということで、ボストン近郊のハーバード大学のロースクール(法科大学院)に留学した。時あたかも、ケネディ暗殺の直後で、しかもベトナム戦争の最も激しい時期だったので、キャンパスには反戦運動が盛り上がっており、筆者もアメリカ人の友人たちに誘われて、週末ごとにボストンコモンズなどに繰り出して、「ベトナム戦争反対、即時撤退せよ」「LBJ(ケネディの後任でテキサス出身のジョンソン大統領)は即刻退陣せよ」などと大書したプラカードを掲げてデモ行進に参加した。いくら学生の身分でも現職の外交官だからまずいとは思ったが、ベトナム戦争には元々反対だったので、大使館には内緒で参加したわけだ。


ベトナム戦争反対のデモ活動の様子(BOSTON GLOBE/GETTYIMAGES)

 ところが、運命は皮肉なもので、2年後の人事異動で突然戦時下のサイゴン(旧南ベトナムの首都。現在のホーチミン市)の日本大使館に政務書記官として赴任。ちょうど米軍のベトナム介入が本格化し、「北爆」が始まった直後で、ハノイは連日B52による猛爆撃に見舞われており、北ベトナムのホーチミン政権は怒り狂って、一気に北緯17度線(南北境界線)を超えて南越に攻め入るだろうからサイゴンは共産軍に包囲され、大変な状況になる。共産軍は余勢をかってカンボジア、ラオス、タイからさらにマレー半島を南下してマレーシア、シンガポール、インドネシアまで攻め込み、東南アジア全体を赤化(ドミノ理論)するだろうから、とてもサイゴンから生きては帰れまいと、同期生たちは水盃ならぬ送別会をやってくれたほどだ。

 実際に、筆者は2年半のベトナム在勤中に様々な危機的状況を経験したが、特に、68年1月末のテト(旧正月)の時は、偶々地方情勢視察の名目で中部ベトナムの古都フエ(当時はユエ)に旅行中で、そこで共産軍による一斉蜂起、ベトナム戦争最大の激戦、「テト攻勢」に遭遇。文字通り死線を何度も潜り、「戦後日本外交官殉職第一号」になりかけた。


1968年1月から始まったテト攻勢  (BETTMANN/GETTYIMAGES)

 この貴重な体験がその後の私の人生に大きなインパクトを与えたことは確かだ。最大の教訓の一つは、ギリギリの状況で外交に「中立」はない、基本的にどちら側に付くか曖昧は許されないということだ。

原子力と環境問題との邂逅

 さて、ベトナムから帰朝してしばらく本省のアジア局や経済局に勤務したのち、突然国連局(現在は総合外交政策局)の科学課に転勤させられ、当時「ビッグサイエンス」と呼ばれた原子力平和利用、海洋開発、宇宙開発、南極問題等を担当。そこで初めて原子力を本格的に勉強した。

 特に重要案件だったのは、当時交渉中だった核拡散防止条約(NPT)に日本は加盟すべきかどうかで、それは当然日本自身の核武装のオプションを放棄するかどうかの難題が絡むので、非常に緊張した。中国の核実験(1964年)のわずか数年後だったから当然だ。結局、日本がNPTに加盟することのメリット、デメリットを慎重に比較検討し、国会(特に与党)の了承も取り付けて同条約の署名(70年2月)に漕ぎつけた。同条約は原子力発電の分野にも直接関係するが、当時は、まさに日本の原子力の興隆期で、関係各国や国際原子力機関(IAEA)との原子力関係の整理・合理化作業で多忙を極めた。

 ところが、別の分野では、ちょうどこのころ、高度経済成長のひずみとしての公害問題(水俣病、四日市病など)が表面化し、深刻な社会問となり始めていた。海外では、酸性雨などのいわゆる越境汚染、海洋汚染や野生動植物の保護などの様々な問題が噴出し、これらを解決するための国際協力の必要性が叫ばれ、スウェーデンの提唱で「国連人間環境会議(The United Nations Conference on the Human Environment)が72年6月ストックホルムで開催されることが決定した。

 当時日本国内では水俣病などの「公害」問題の全盛期だったが、「環境」問題などという言葉はそもそも聞いたことが無く、それが「公害」問題とどういう関係があるのか分からなかった。そこでストックホルム会議の準備委員会には、とりあえず厚生省や通産省などの「公害課」の役人中心の代表団を編成して出かけたのだが、ニューヨークの国連本部での会議に出てみて、どうも様子がおかしいことに気が付いた。


1972年、スウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議 (POPPERFOTO/GETTYIMAGES)

「かけがえのない地球」を創案

 現在では霞が関に独立した環境省もあるし、全国の大学には「環境学部」なども多数あって、環境という言葉は日常茶飯事のように使われているが、当時はそういう言葉も概念も無かった。東大などの偉い先生に尋ねても要領を得なかった。外務省内は勿論、日本政府内でも環境問題担当官は筆者一人だけだったので、相談相手もいない

 そこで、一介の公務員ながら、日本における「公害から環境へ」の意識革命の必要性を痛感した筆者は、ストックホルム会議の公式スローガンであった"Only One Earth"の日本語版として「かけがえのない地球」という語句を自ら考案し、朝日新聞の懇意な記者などの協力を得て全国に普及させた。また、環境庁の創設 (71年)にも参画し、その名付け親ともなった(当初、内閣府に厚生省、通産省、農林省などを主体とする「公害対策本部」が設置されていたため、当然のように「公害対策庁」と命名される予定だったが、筆者の主張で「環境庁」になった)。


環境庁の看板を揚げる職員 (THE MAINICHI NEWSPAPERS/AFLO)

 そうしたさまざまな経緯を経て、72年6月ストックホルムで国連主催の最初の環境会議が開かれ、森羅万象とも思われた地球上の多種多様な環境問題が初めて一挙に議論され、「人間環境宣言」も採択された。まさに世界史上画期的な会議であった。

 その後、同年中にロンドンで「海洋投棄規制条約」、パリで「世界遺産条約」、ワシントンで「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」、イランのラムサールで「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」などの作成会議が立て続けに開催された。私はそれらの会議のほとんどすべてに参加したが、「ミイラ取りがミイラに」の例えよろしく、72年に新設された国連環境計画(UNEP)へ日本政府派遣の幹部職員第一号として出向する羽目になった。

(後篇に続く)


本記事はWedgeに掲載されたものです。