大学に「総合エネルギー学部」を創れ~福島事故の教訓を生かし、日本人のエネルギー意識を高めるために

大学に「総合エネルギー学部」を創れ
~福島事故の教訓を生かし、日本人のエネルギー意識を高めるために

金子 熊夫

 東京電力福島第一発電所の事故は、まさに未曾有の大惨事で、多くの人々に大きな苦痛を与え、また日本の原子力に計り知れないダメージを及ぼしたが、視点を変えて見ると、1つだけプラスの効果があったのではないか。それは、日本人が、否応なしに、原子力問題を含むエネルギー問題について真剣に考える機会を与えたということだ。
 
 この事故がなければ、国民の大多数、とくに文科系の人々----筆者もその一人だが----にとっては、シーベルトだの、ベクレル、セシウムだのという言葉は全くちんぷんかんぷんだったはずだ。まして原子炉の複雑な構造やベント、水素爆発、炉心溶融などという専門用語は恐らく初めて耳にしたはずだが、いまや日常会話の一部にさえなっている。あまりにも高い授業料ではあったが、得られた教訓は決して無駄ではないだろう。いや、決して無駄にしてはならない。

 ただ、考えてみると、エネルギー自給率はわずか4%で、「エネルギー資源小国」を自認する割に、今まで日本人は、原子力を含むエネルギー問題を本当に理解しようとしなかったような気がする。福島事故のはるか以前から、特に第一次石油ショック(1973年)以来、エネルギー教育の重要性はやかましく言われてきたものの、一般に日本人のエネルギー問題に関する認識や知識は非常に乏しいと言わざるを得ない。

 なぜそうなのか? つらつら考えてみるに、原因の1つは、「エネルギー」という言葉自体が日本人の思考形態の中にしっかり定着していないからではないか。第一、「エネルギー」などというカタカナが未だに使われている。幕末、開国の時代に、我々の祖先は、大変な苦労をして英語などの外来語を日本語化してきたが(「政治」、「経済」、「哲学」などの言葉はすべてその時代に考案されたもの)、ついに「エネルギー」に対応する日本語は発明されなかった。
ちなみに、同じ漢字国の中国では、エネルギーを「能源」と訳している。中々の名訳だと思うが、「ノーゲン」という発音が、音感にうるさい日本人の嗜好にぴったり来ないので、日本では普及しないだろう。

 カタカナの「エネルギー」のままでいいではないかと言う人もいるが、やはり漢字になっていないとまずい。だいぶ以前、文部省の役人に「なぜ日本の大学には『エネルギー学』とか『エネルギー学部』ができないのか」と尋ねたところ、「明治時代からの慣習で、法学部とか経済学部、工学部というように漢字ではっきり表記できないと学問分野とは認めがたいし、そもそもカタカナ名では座りが悪い、重みがない」という返事だった。昨今では、カタカナ名の学部や学科が珍しくないようだが、万事伝統を重んずる旧帝大などは、一部の大学院を除き、カタカナ名の学部は敬遠する傾向がある。

 たかが学部の名称と言われるかもしれないが、先ず一流大学で正式に「エネルギー学部」というようなものができないと、現状の抜本的な改革、改善は難しい気がする。大学レベルで「エネルギー学部」ができ、それが定着すれば、当然入試にもエネルギー関係の問題が出るようになるから、一気に高校、中学レベルまで変わるだろう。下からよりも上からの改革の方が手っ取り早いし、確実だ。
私が長年提唱しているのは「総合エネルギー学部」だ(拙著「日本の核 アジアの核」=朝日新聞刊、1997年=の第7章参照)。日本ではエネルギーと言うと、直ぐ理工学的なイメージがあるが、文系、とくに社会科学的な内容も加味しないと駄目だ。エネルギーは本来きわめて学際的な分野だから、まさに文系・理系一体となった総合エネルギー学部とする必要がある。

 私事ながら、今から50年ほど前、私が駆け出しの外交官として、米国のハーバード大学のロースクール(法科大学院)に留学していたころ、隣の建物では、ヘンリー・キッシンジャー氏が講義をしていたので、よく潜り込んで聴講した。まだ講師か助教授の頃で、それほど有名ではなかったが、講義のテーマは「科学技術と外交政策」というようなもので、核兵器、原子力、エネルギー問題などを国際政治の角度から、理科・文科の垣根を越えて、縦横無尽に論じていたのが非常に印象的だった。
私も退官後東京で10数年、大学教授を務めた経験があるが、どうも日本の大学では、昔からの伝統で、文系学部の教授は「自分は理系は苦手だから」と、また理系の教授はその逆で、お互いに避けて通るので、肝心な学際的な部分がすっぽり抜け落ちる。たまに熱心な学生が理系または文系学部に潜り込んで講義を受講しても卒業単位には入らない仕組みになっている。ここを先ず改善しなければならない。

 改めて言うまでもなく、現代のエネルギー問題は、まさに学際的な問題で、政治、外交、経済、法律、歴史、宗教、物理、化学、医学等など多数の分野の知識がなければ本当の理解は得られない。例えば、原子力問題についていえば、福島事故以後、原子炉の安全性とか放射線被曝とか自然エネルギーとか国内レベルの問題点は過剰と思われるほど盛んに議論されているのに、日本のエネルギー資源はどこからどうやって輸入されているか、もし原発がゼロになったら日本のエネルギー・セキュリティーはどうなるか、益々激化する世界のエネルギー資源争奪戦の中で日本はどうやって生き延びていくかなどという国際政治・外交的な視点はほとんど全く忘れられている。資源のない日本が今後原発無しでどうなっていくか、今世界中が注目しているのに、肝心の日本人はあまりにも無関心だ。その方面の情報もあまり提供されていない。

 こうした日本国内の状況を抜本的に是正するためにも、是非全国の大学に「総合エネルギー学部」を創ってもらいたい。私はこのことを自分自身の経験を通じて過去40年来一生懸命唱え続けているが(詳しくは前掲書の第7章)、未だに実現していないのは真に残念である。一日も早く実現させてもらいたい。そのためにも何か「エネルギー」に代わる適当な日本語はないだろうか。皆さんのお知恵を拝借したいものだ。