頑張れ 外務省!~日米同盟の眞価が問われるとき~
近年外務省に対する風当たりが厳しく、昨年はついに「さらば、外務省!」などという暴露本まで出版された。中央官庁の毀誉褒貶は世の常だが、国の外交を司る官庁のこととなれば、外務省OBならずとも一国民として座視するわけには行かない。
もとより公金横領、不正経理などは言語同断であり、弁解の余地は全くないが、最近における外務省の威信の低下は、必ずしもそうした形而下的な事柄だけが原因ではなく、日本外交のもっと基本的な部分に関わりがあると思われる。ここでは特に北朝鮮問題とイラク戦争の二点に絞って考えてみたい。
小泉首相の劇的な平壤訪問から間もなく一年半、日朝関係打開の道筋は一向に見えず、相変わらず核カードを駆使して瀬戸際外交を続ける「北」に対して効果的な対抗策を打ち出せない政府の「弱腰」に国民の多くは苛立ちを募らせている。その結果国内の一部には、「日本も核武装に踏み切れ」などという極論まで出てきている。
拉致問題でここまで国民感情が硬化した以上、外務省としてもこの問題を棚上げにしたまま次の手を打ちにくいのは確かだ。しかし、拉致問題と核問題は、詰まるところ、ワンセットで解決する以外にないだろう。被害者とその家族にとって拉致問題が最優先課題であることは理解できるが、だからと言ってこの問題をネックにしてはならない。六者協議で、核兵器を含む大量破壊兵器問題が解決し、朝鮮半島を含む北東アジアの地域安全保障体制が合意されれば、その流れの中で拉致問題は自然に解決するはずだからだ。
まさに「急がば廻れ」であり、そのような大局的な観点に立った包括的な解決を図らなければならないが、これこそ外交のプロが全身全霊を傾けて取り組むべき仕事である。ただ、そのためには、外務省だけでは無理で、ここは政治家、とりわけ最高責任者である総理大臣のつよい指導力が不可欠だ。百年前、日露戦争を終結させるポーツマス講和会議の際、激昂する世論を抑えて、小村寿太郎外相を中心とする外務省が強力な外交を展開できたのは、その背後に当時の元老等トップの政治家の強いバックアップがあったからだ。この歴史的事実を想起して政治家は外務省をもっと支援すべきだが、外務省もまた早く自信を回復し、一層の信念と勇気をもって外交戦に挺身してもらいたいものである。
次に、イラク戦争に関して言えば、外務省や小泉内閣の対応が国内で不人気なのは、それが国民の目には、もっぱら対米追随外交と映るからだ。しかし、外交は本来理性的、合理的な判断に基いて行なわれるべきもので、眞に国益に合致するとの確信があれば「対米追随」の批判を気することはない。
日本政府が昨年三月イラク開戦支持を表明したのも、今またイラクの戦後復興支援のために陸上自衛隊の派遣に踏み切ったのも、米国の圧力によるのではなく、ましてブッシュ大統領を喜ばせるためではなく、そうすることが日本の国益に合致すると判断したからである。この場合「国益」の中身は多面的である。例えばエネルギー問題の視点からだけ見ても、中東に輸入石油の九〇%を依存する日本が米英と協力して中東地域の安全保障のために汗を流すのは当然だ。中東問題は日本経済にとってまさに死活的重要性を持っており、この面でも「安保ただ乗り」は許されない。
ついでに言えば、ドイツやフランスがイラク問題で独自の外交路線を選択できる理由の一つは、彼等の対中東石油依存度が日本より遥かに低いためだ。このことを忘れて、徒に「日本も独仏等を見習え」というのは虫が良すぎる。しかも日本とペルシャ湾の間の13,000キロに及ぶタンカールートの防衛は日本だけでは十分対応できない。日米安保協力は、極東地域だけでなく、南シナ海以遠においても不可欠である。
外務省に欠けているのは、そうした日米同盟の持つグローバルな意義をもっと具体的に分かりやすく説明し、国民の納得を得ようとする努力と工夫だ。日米は、米英、米加のような血縁的ないし同族的な同盟関係ではなく、利害の一致を基盤とする理性的な結びつきであり、双方の不断の努力によってのみ維持、発展させ得るものである。
さらに言えば、国民の幅広い理解と支援がなければ、外交官自身が海外で国のために体を張って仕事をすることは出来ない。私事ながら、筆者はベトナム戦争最盛期の一九六〇年代半ばサイゴンに在勤中、幾度も死線を潜ったが、とくに歴史的なテト攻勢(一九六八年一~二月)の時は、偶々出張先のフエで北越・人民解放戦線(ベトコン)軍と米・南越軍の激戦に巻き込まれ、危うく「戦後外交官殉職第一号」になりかけるという貴重な体験を持つが、あの極限的な状況の中で最も痛切に感じたことは、「犬死だけはしたくない!」ということだった。現在のように国内世論が混乱していては、イラクに派遣される自衛隊員や外交官は万一の場合、死ぬにも死にきれまい。
日米同盟は日本の命綱であり、日本外交の基軸であるが、それには当然義務と一定の犠牲が伴う。同盟国の利点だけを享受することは許されない。そのことを外務省自身がはっきり再確認した上で、さらに、多くの国民がそのような認識を共有できるよう、日頃から国内向けの説明を十分に行うことが重要である。外務省は対外的な発信能力を鍛えると同時に、もっと対内的な説明能力を高める努力を強化すべきだ。「対米追随」のいわれ無き汚名を返上し、真の自主独立外交を確立する道は、その努力の中から自ずから拓かれるであろう。