「平和のための原子力」の50年、その光と影 次の50年に向けて日本は積極的な役割を
1.はじめに
昨年(2003年)は、アイゼンハワー米大統領が1953年12月8日、国連総会で歴史的な「平和のための原子力」(Atoms for Peace)演説を行ってからちょうど50年の節目の年であり(ちなみに12月8日は、日本人にとってはいささか気になるタイミングだが、真珠湾攻撃は米国時間では12月7日である。念のため)、この演説を記念して世界各地でいろいろな国際会議やシンポジウム等が開催された。
日本では、日本原子力学会主催の「Atoms for Peace in Japan (Asia)会議:変革のとき、50年を振り返り、これからの50年を考え始めよう」が、昨年9月末29―30日東京都内で盛大に開催された(その概要は本誌昨年11月号に掲載)。
お膝元の米国では、さすが多数の原子力研究機関や国際・戦略問題研究所等による同趣旨の国際会議やシンポジウムが全米各地で開催されたが、その中で最も重要と思われるのは、サンフランシスコ近郊のリバーモアにあるローレンス・リバーモア国立研究所(LLNL)が主催した一連の国際会議であろう。「50年後の『平和のための原子力』:新たな挑戦と機会」(Atoms for Peace After 50 Years: Challenges and Opportunities)と題するこの国際会議は、そのカバーした範囲といい、議論の中身といい、最も充実したものと言ってよい。たまたま筆者はこの会議に深く関わったので、個人的な印象を含めてその概要を報告しておきたい。
主催者のLLNLは、1945年8月広島・長崎へ投下された原子爆弾を開発・製造したニューメキシコ州のロスアラモ国立研究所(LANL)に次ぐ第2の研究拠点として1952年に設立され、冷戦時代は主として核兵器研究開発で重要な役割を果たした。マンハッタン計画に参加し、その直後から水爆の研究開発を推進し、後に「水爆の父」と謳われ、さらに1980年代にはレーガン大統領の外交・軍事指南役として、「戦略防衛構想」(SDI)、いわゆる「スター・ウォー構想」の立案にも中心的な役割を果たし、昨年夏95歳の高齢で死去したエドワード・テラー(Edward Teller)博士も、LLNL設立直後に第2代目の所長を務めたのは衆知のところである。
ただ、今回の一連の国際会議は、LLNLの中の世界安全保障研究センター(Center for Global Security Research=CGSR)が実質的な事務局として会議の企画・運営や準備ペーパーをすべて作成したという事情もあり、当初から議題の設定や会議参加者の選定には、原子力の平和利用面より軍事利用、すなわち安全保障面に一層大きな比重が置かれていたというべく、このことは以下に見るように、必然的に議論の流れにも大きな影響を与えていた。
なお、この国際会議は、前後5回にわたって開催された。まず第1回会合は、昨年4月にリバーモアで、第2回は5月に日本(静岡県御殿場)で、第3回は7月にフランス(サクレー)で、第4回は9月にワシントンで、そして最終会合は11月半ばに再びリバーモアで開催された。このうち、第1回は主として原子力軍事利用に、日本で開かれた第2回は主として平和利用に、第3回と第4回は両方に重点がおかれ、最終会合では、これらの議論を総括し、今後の展望を行なった。各会合には全米各地と世界各国から平均100名を越える核・原子力問題の専門家や研究者が出席し、前後5回の会合の出席者を合計すると約200名に達したとのことである。
米国の参加者の中には、ワシントンの国防総省、国務省、ホワイトハウス、エネルギー省、原子力規制委員会等から現役の担当官が個人的資格で参加していた。中には、第2次世界大戦末期のマンハッタン計画(原爆製造計画)の生き残りや、実際にアイゼンハワー演説の起草に係わった高齢の科学者等の顔も見え、貴重な体験談や薀蓄を披露していた。全般に共和党系の学者や研究者が多いように見受けられたが、民主党系の人々もかなりおり、彼らの多くは歴代政権でそれぞれ核・原子力問題を担当した実務経験を持つ。海外からは、ヨーロッパ(英、仏、ロシア等)やアジア(インド、韓国等)から若干名の専門家が参加したが、日本からは、御殿場での第2回以外は少数で、とくに第1回と最終の第5回会合は筆者だけで、やや寂しかった。なお、9.11事件以後米国の政府系の研究機関は警戒態勢が厳しくなっているが、とくに今回はイラク戦争後中東や世界各地でテロが頻発している時期でもあったので、LLNLでは出席者のセキューリティ・チェックに神経質的と思われるくらい注意を払っていた。このため出席者は特別に招待された人に限定され、一般の傍聴者は皆無であった。
2.「平和のための原子力」の歴史的背景
ところで、アイゼンハワー演説は、日本では専ら原子力平和利用を提唱したものとして記憶されているが、実際には、平和利用問題は演説の最後の部分に出てくるだけで、軍事利用(核管理)問題が中心命題であった(原文はhttp://www. )。
すなわち、1945年7月ニューメキシコ州のアラモゴールドで最初の核実験に成功したとき米国は、この人類史上かつてない巨大なエネルギー技術を軍事機密として、その完全独占を意図したが、僅か4年後の1949年にソ連も核実験に成功した。同年北大西洋条約機構(NATO)が結成され、米ソの冷戦がスタートした。
当時米ソ両国は、誕生したばかりの国連を舞台にして、核(原子力)の国際管理方法を巡って鋭く対立していた。国連総会の決議第1号は「国連原子力委員会」(UNAEC)の設置に関するものであったが、結局同委員会は画餅に終わった。トルーマン政権下でD.アチソン(Dean Acheson)国務次官とD.リリエンソール(David Lilienthal)初代米国原子力委員長(前TVA総裁)がまとめた核(原子力)国際管理構想は、B.バルーク(Bernard Baruch)国連代表による「バルーク提案」という形で国連原子力委員会の審議に付されたものの、拒否権問題などが絡んで、米ソ交渉は暗礁に乗り上げていた。
他方、マンハッタン計画を通じて核・原子力情報を得ていた旧連合国の英国やカナダでは、戦後直後から原子力の平和利用研究が進んでおり、それぞれ独自の原子炉の開発に着手していた。そこで、米国は、従来の政策を一転し、まず商業用原子力発電への道を開くために原子力法(マクマホン法)を改正した上で、独自の軽水炉開発を進めると共に、原子力平和利用、つまり原子力発電の分野でも世界の主導権をとるため、新しい国際制度の創設を唱え始めた。
米国が最初に考えたのは「国際原子力開発公社」(International Atomic Development Authority)構想で、機微な技術やウラン燃料等はすべて公社のみが所有、管理するとしていた。しかるに、この構想がまたしてもソ連の反対で不発に終わると、次善の代案として、「国際原子力機関」(IAEA)構想をまとめ、それを1953年のアイゼンハワー演説で打ち上げたのである。
当初の米国構想(バルーク提案)では、核物質等を一旦すべて国際機関にプールし、それを希望国に貸与する方式を想定していたが、1957年に創設されたIAEA制度下では、各国間の妥協の結果、核物質や原子炉は生産国(製造国)から直接輸入国に移転され、IAEAは、当該核物質が軍事転用されることを防止する機能、すなわち「保障措置」だけを受け持つことになったのである(もっとも憲章上はIAEAから供与されるシステムも残されているが、初期の一時期を除き、このシステムは事実上あまり利用されていない)。
今にして思えば、この時点で、核の軍事転用=核拡散が比較的起こりやすい国際制度が決定されてしまったわけである。勿論、その後1968年の核不拡散条約(NPT)の成立によりIAEA保障措置は格段に改善されはしたが、「パンドラの箱」から出てしまった核エネルギーを完全に管理することは所詮不可能である。インド、パキスタン、イスラエルは言うに及ばず、今日最大の国際紛争の原因となっているイラク、イランや北朝鮮の核開発問題がそのことを如実に示しているといえよう。
3.「平和のための原子力」は失敗だったのか?
さて、今次LLNL会議では、過去50年間を振り返って、果たしてアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」提案は成功であったとみるべきか、あるいは失敗であったとみるべきかが最も基本なテーマの1つであったわけであるが、以上のような歴史的背景に鑑みれば、米国人参加者の間では、同提案は結局のところ「失敗」であったという点で暗黙の合意がみられたことはいわば当然のことである。
思うに、アイゼンハワー提案が国際的に失敗であったかもしれないという否定的な評価は、相当昔から米国内には存在していた。とくに1974年のインドの核実験後登場したカーター政権の下で、1977から2年余にわたって実施された「国際核燃料サイクル評価」(International Nuclear Fuel Cycle Evaluation=INFCE)作業は、まさにそのような米国の苦い反省に基づき、もう一度出発点に戻って、原子力開発を巡る国際制度や技術的問題を抜本的に再検討しようという試みであった。結果的にINCFE作業は、日本と、当時原子力発電に前向きであった英、仏、独等との連携プレーによる懸命の巻き返しによって、米国の当初目標とは逆の結論に到達したわけであるが、米国は、その後ますます原子力平和利用に消極的になっていることは周知のとおりである。もっとも、2001年1月のブッシュ政権の登場以降、米国のエネルギー政策の中における原子力発電の位置付けが急上昇しており、今後米国内で原子力再生の動きが本格化する兆しも出てきているが、にもかかわらず、米国の核燃料サイクル(とくにバックエンド)政策が大きく前向きに変わる可能性は乏しいと見ざるを得ない。
以上は米国の現状からして止むをえないところであるが、しかし、原子力平和利用の"模範生"を自認し、独自の核燃料サイクル路線の確立を目指して必死の努力を続けてきた日本の立場からすれば、そう簡単に「平和のための原子力」構想が失敗であったと言うわけには行かない。しかもINFCE当時と異なり、いまやドイツ、ベルギー、スウェーデン等西欧諸国では脱原発の動きが加速しており、日本の原子力平和利用は日本自身の手で守らなければならない時代になっている。他力本願から自力本願へギアチェンジをしなければならない。
日本としては、今後あらゆる機会を捕らえて、エネルギー資源小国にとっての原子力の重要性を、自らの50年の実績と将来展望を踏まえて内外に強力にアピールするべきであり、そのための周到な理論武装を急がねばならない。さらに言えば、そうした努力は、単に日本だけのためではなく、近い将来深刻なエネルギー問題を抱え、できれば原子力発電を導入したいと考えている他のアジアの国々のためにも必要なことである。そのためには、なるべく近い将来、「アジアのための新しいアトムズ・フォー・ピース」(New "Atoms for Peace" in Asia)とでもいうようなスローガンの下に、原子力の再生を目指した一大国際プロジェクトを日本が中心になって準備すべきではないか。こうした点は、筆者が上記日本原子力学会主催の50周年記念会議(2003年9月)でも力説したところで、ここで改めて強調しておきたい。
4.最終会合での議論のハイライト
さて、ここで前後5回に及ぶLLNL会合の模様をご紹介すべきところ、全体的に詳しくご報告するにはあまりにも膨大で物理的に無理であり、また正式の最終報告書が主催者によって近いうちに公表されるはずなので、それに譲り、ここでは主に、昨年11月13,14日にリバーモアで開催された最終会合の模様を、ハイライト的にご紹介するに止めておきたい。なお、この会議は終始非公開で、出席者についても、誰がどのような発言をしたかは明らかにしない建前になっているので、その点は予めお断りしておく(ただし、筆者が直接本人に了承を得た人々については、その名前を明記してある)。
2日間にわたる議論の中で、とくに注目すべき発言や印象に残ったこと等をアットランダムに摘記すれば次のとおりである。
核戦略、核拡散問題について
▼ 開会セッションで、アイゼンハワー大統領の孫娘スーザン・アイゼンハワー女史(Susan Eisenhowerロシア人科学者と結婚)が特別ゲストとして挨拶を行い、子供時代に接した故大統領の思い出を披露したが、その中で、故大統領は軍人として戦争の悲惨さを体験しただけに、平和に対する思い入れが人一倍強かったこと、とくに前年(1952年)の英国の第1回核実験、米ソ両国の水爆実験などにより冷戦が深刻化する中で核戦争の勃発を本気で懸念しており、そのため国連演説の草案では暗い(gloomy)ムードが強く出ていたが、バミューダ会談後ニューヨークに到着してから故大統領自ら草案に入念に手を入れ、原子力平和利用が人類に齎し得る利益(benefits)を具体的に書き込むことにより一層明るいトーンを出すように苦心したと証言したことがとくに印象的であった。このことは"Atoms for Peace"提案の本来の趣旨を理解する上で重視されるべき点と思われる。
▼ なお、開会セッションでは、国連総会で演説中の記録映画が上映されたが、上記のような緊迫した時代背景や、同演説に賭ける故大統領の気迫がよく現われていて一同感動を新たにした。また、そのときの国連総会議長はネール・インド首相の妹のパンディット夫人で、インドが新しい「原子力時代」のチャンピオンの一員であることを印象つけていた(ちなみに、1955年ジュネーヴで開催された第1回原子力平和利用会議の議長は、後年インドの初代原子力委員長を務めたホミ・バーバー博士であった)。米インド関係のその後の成り行きを顧みて誠に興味深かった。
▼ 現在世界が当面するホットな核拡散問題に関する一連の議論の中で、とくにクリントン政権時代に国務省の核不拡散問題担当大使として、NPTの無期限延長決定(1995年)に尽力したトーマス・グラハム(Thomas Graham)氏は、「無期限延長は同条約第6条(核兵器国による核軍縮義務)とのセットで勝ち得たものであったはずなのに、その後米国はCTBTやABM条約で後ろ向きの態度を取っており、今また小型核兵器開発や先制核使用問題等で非核兵器国側の信頼を裏切っている」としてブッシュ政権の外交姿勢を批判すると共に、米国は再びリーダーシップを確立するためには、同条約第4条(非核兵器国のための原子力技術協力)をも踏まえた「第2次Atoms for Peace計画」を打ち出すべきではないかと述べたのが注目された。今後の核・原子力外交において米国が一層強いリーダーシップを発揮すべきだという意見は多くの参加者から異口同音に繰り返し述べられたが、それは米国のリーダーシップが欠如している現状への苛立ちを反映するものでもあろう。
▼ この点に関連して、先般エルバラダイIAEA事務局長が国連総会で行った2003年次報告の中で、核燃料サイクル活動はできるだけ多国間協力システムの形で行われるようにすべきだとの提案を行なったことが話題となり、同提案に対する賛否両論が述べられた。とくに、小規模原発国が再処理をしなくても済むように使用済み核燃料の貯蔵所を多国間方式で建設すべきだという意見が複数の出席者から述べられ、筆者(金子)からも1970年代末から80年代初めのINFCE(国際核燃料サイクル評価)会議中に行った国際協議や日米交渉の内容(とくに「パルミラPalmyra島使用済み燃料貯蔵所建設計画」など)を紹介した。ただ、全般的には、エルバラダイ構想は狙いは理解できるものの、現在のIAEA体制の下で実現可能性があるかどうかについては、懐疑的な意見が多かった。
▼ なお、1970年代後半、東海再処理施設の運転問題や六ヶ所計画に関する日米交渉に米側代表団の一員として関与したハロルド・ベンゲンルスドルフ(Harold Bengelsdorf)氏も、「余剰プルトニウム」に関する国際管理構想の必要性を強調した。この構想は同氏の長年の持論で、本人によれば、これは日本の「余剰プルトニウム」に対する国際的な疑惑を防ぎ、六ヶ所工場での再処理を行い易くするのが実は主目的であると筆者に内々に語り、日本でも是非この構想を前向きに検討してもらいたいと述べていた(会議終了後2人だけで食事をした際のコメント)。
▼ 9.11事件を契機として近時国際的に重視されている、原子力施設に対するテロ攻撃対策問題は、今次会合においても最も熱心に議論された問題の1つであった。この問題に関連する議論の中で、現行の核物質防護(PP)条約はもっぱら国際輸送中の核物質の防護を対象とするものであるので、国内レベルでの核物質防護を主目的とする新しい国際条約を締結すべきであるとの意見が複数の出席者から述べられた。また特に再処理、プルトニウム利用を行なう国の場合は、テロリストの攻撃に対して今まで以上に有効な対策を構ずるべきだとの意見が多かった。
原子力平和利用活動について
▼ 米国における原子力発電の現状と将来展望については、特別ゲストとして招かれていた米国電力研究所(EPRI)の創設者で名誉会長のチョンシー・スター(Chauncey Starr)氏が91歳でなお矍鑠としたところを見せ、いろいろ強気の発言を行って注目された。彼によれば、アイゼンハワーのAtoms for Peace演説以後も順調に伸び続けていた米国の原子力発電が停滞し始めたのは、1964年にジョンソン大統領がベトナム戦費捻出のために原子力予算を大幅に削減したのが直接の原因であるとの見方を示した。しかし、現政権の下で米国の原子力は再活性化しつつあり、今世紀中拡大しつづけるであろうとの極めて楽観的な見通しを述べた。さらに彼は、全世界では次の50年間に原子力発電は倍増する、原子炉の主力はPWRかBWRの改良型で、Candu炉も一定の競争力を持つが、ガス冷却PBRや現在研究中の新型炉(GenIV)はまだ実用化には至らない、核燃料サイクルはonce-throughが中心で、MOX燃料は核兵器解体プルトニウム消費目的には有効である、高速増殖炉開発はロシア、日本等一部の国で継続するだろうがそれには政府の援助が必要である(ただし、もし将来高温PBRの実用化が成功すれば、once-throughのトリウム・サイクル路線が現在のPWR路線に取って代わるだろう、そうすれば民生用原子力からの核拡散問題もなくなる、従ってこの計画は高い優先順位を与えられるべきだ)などと述べた。
▼ スター氏はさらに、9.11以後核物質のテロ・グループによる窃取の危険性は増大しているが、原子力活動に関わる核物質の軍事転用のリスクは従来誇張され過ぎており、いまだかつて民生用原子炉燃料から核爆弾を実際に製造したケースはない、そのようなリスクは反原発派の「ためにする議論」である、この点で原子力推進派はもっと公衆への広報教育活動を強化する必要がある、電力業界はPR努力がまだ不足している等と力説した。
▼ 同氏はまた、近年における米国の原子力の好調の原因は原子力規制委員会(NRC)によるライセンス手続きの合理化が大きく、これは他の国々にとってもモデルになるはずだと述べたが、この点に関しては、元NRC委員のビクター・ギリンスキー(Victor Gilinsky)氏が、確かにNRCの果たした役割は重要で、例えば、オハイオ州のDavid-Besse原発の問題(圧力容器の上蓋のホウ酸による腐食)の対策が遅れていたら、TMIやチェルノブイリ事故を上回る大事故が発生し、米国の原子力は壊滅的な損害を蒙っていた可能性があると指摘していた。ギリンスキー氏はしかし、ユッカマウンテン計画については、今後建設と運営費に600~1,000億ドルかかり、これは現在原発1基あたり10億ドルの計算で、高すぎると思う述べた。
▼ 元IAEA事務次長(保障措置担当)で現在はスイスで原子力関係のコンサルタント業に従事しているブルーノ・ペロー氏(Bruno Pellaud)は、スイスのおける原子力活動に関連して、スイスや日本のような資源小国ではonce-throughでウラン燃料を捨ててしまうような勿体無いことは出来ない、再処理は欠かせない、ただし、現状では再処理のコストが高すぎるので将来もう少し安くなるまで待つつもりだ、再処理はすでに十分確立した技術であり、大きな事故も起こしていない等と述べた。
▼ 同氏はまた、最近発表されたMIT報告書「原子力の将来」は多くの点で間違っており、とくにヨーロッパにおいて原子力反対派が多数を占めているとの認識は全く誤認であると述べた。すなわち、ヨーロッパでは例えばフィンランドが原子力発電を完全な民営で(政府資金なしで)強力に推進しつつあり、また、今夏の猛暑で停電騒ぎのあったイタリアでも20年前の脱原発政策で閉鎖していた原発2基の運転を再開する動きがあり、これはフランスとの共同出資で進められることになっている。スイスでも政府の脱原発政策が最近国民投票で否決された。このようにヨーロッパでは現在多くの国で原子力の重要性が見直されつつあり、原子力復活へ向けて大きな変化が起こっていると述べた。
NPT/IAEA制度について
▼ 開発途上国の原子力平和利用と核拡散防止の関係については、現行のNPT/IAEA体制は必要ではあるが極めて不十分である、今後は原子力供給国グループ(NSG)による輸出規制等をもっと強化する必要があり、例えばIAEA保障措置「追加議定書」の非加盟国への原子力輸出・協力を禁止するとの原則を確立すべきだという議論が多かったが、これに対し、インド人出席者から異論があり、インドではすでに完全な自力で原子力発電を行なっているものの、安全性の面で種々の困難を抱えており、先進国との技術交流が必要である、先進国側はあまり気がついていないようだが、すでにパキスタン、イラン、北朝鮮など途上国相互間で「南南協力」が盛大に行なわれており、核兵器やミサイル製造に関する技術協力は彼らの間だけで可能になっている、先進国がいくら輸出規制をしても止められるものではない、ただしインドは機微な原子力技術の輸出は全く行なっていない等と述べた。こうした発言を受けて、今やインドは例外的存在として扱うべきであり、対インド原子力協力は今後できるだけ促進した方がよいという意見がジョン・ホルドレン氏(John Holdrenハーヴァード大学科学国際問題研究センター所長)ほか数名の出席者から述べられたのが注目される。
日本核武装論について
▼ なお、時局柄「日本核武装」問題については、2日間の会議中いろいろな文脈で再三話題に上った。例えば、今次総選挙(11月9日)直後「国会議員の17%が核武装問題を国会で検討すべきだとしている」との毎日新聞の報道は多くの米国人出席者がいち早く知っていたようで、こうした点が、日本のプルトニウム計画や六ヶ所再処理工場操業問題とリンクされて、しばしば話題に上った。筆者(金子)もその都度発言を求められて、日本国内の世論とくに政治家の動向や日本の核燃料サイクル政策について説明を行なったが、北朝鮮核問題の推移いかんで日本国内で核武装論が一層高まるのではないか、どういう状況になったら日本は核武装を決断するか(とくに米国の「核の傘」との関係)、もし自前の核武装をするとすればどういう形でこれを行なうのか、というような質問を会議中やコフィーブレイク中に繰り返し尋ねられた。
▼ 同様の質問は、会議の前日(11/12)訪問したモントレー国際問題研究所(Monterey Institute of International Studies サンフランシスコから車で約2時間)で、不拡散研究センター(Center for Nonproliferation Studies)のウィリアム・ポッター(William Potter)所長ほか数人の専門家と意見交換(留学中の黒沢満阪大教授同席)を行なった際にも、盛んに聞かれた。先方はとくに、核武装に関する日本国内世論の動向に強い関心を抱いていた。
▼ これに対しては筆者から、日本国内では核兵器に対する一般市民のアレルギーが依然として極めて根強いこと、一部の政治家や学者などが核武装論らしき発言を行なっているが、実際に日本が核武装することのディメリットはメリットを遥かに上回っていること、それより日米同盟に基く両国の信頼関係をいかに維持強化して行くかを考える方が先決であること等々をできるだけ丁寧に説明しておいた。
▼ なお、LLNL会議でもMIISでも、日本核武装論とは別個に、一般論として、民生用の核燃料サイクルからの軍事転用は実際問題としていまだかつて行なわれておらず、現在問題となっている「ならず者国家」(rogue States)の場合すべて、最初から核兵器製造を意図して特別の原子炉を使ってやっているのが事実であるという点では、専門家の意見はほぼ一致していた。ということは、日本の場合も、万一核武装すると仮定しても、現行の核燃料サイクルからの転用ではなく、特別の方法で核兵器用の分裂製物質を作る道を選ぶだろうとの見方が多かったように思われる。
以上