核燃料サイクル論議、十分に

内外共に多事多難だったこの一年、とくに原子力の分野では、東京電力の全原子炉の運転停止という未曾有の異常事態で、あわや大停電かと案じられたが、冷夏という偶然のお陰で未然に終わったのは何よりであった。

 ただ、ややへそ曲がり的に言えば、大停電が実際に発生していたら原子力の役割について、もっとギリギリの真剣な論議が起こっただろうに、折角のチャンスを逃した、という意見もあり得るだろう。

 偶々今年は石油危機三〇周年であるが、あの危機を乗り越え、その後の経済成長を支えた最大の功労者は原子力であった。その原子力は、先日閣議決定されたエネルギー基本計画で「基幹電源」と位置付けられ、今後も日本のエネルギー安全保障上重要な役割を負わされているのに、現実にはかつてない厳しい逆風下で喘いでいる。

 国民の大多数は、原子力の必要性を頭では理解しながら、積極的にこれを推進しようという声は乏しい。十一月の総選挙でもエネルギーや原子力を争点とする勇気ある政治家はついに現れなかった。どうも平成の日本人は厄介な議論を忌避する嫌いがある。

 原子力の現状を見れば、掛け値なしにもうこれ以上先延ばしできない重要な問題が山積している。とりわけ核燃料サイクルの面では、六ヶ所再処理工場の操業、プルサーマル計画、「もんじゅ」計画、中間貯蔵構想など、軒並み早急な決断を迫られている。その一方で、電力会社は、電力自由化の渦中で難しい舵取りを強いられており、経営責任者の苦悩は察するに余りある。

 しかし、そのことを承知で敢えて言えば、まさにそういう厳しい状況だからこそ、後にしこりを残さぬよう、この際問題点をできるだけ明らかにして、必要な議論は徹底的に行い、コンセンサスを目指すべきであろう。そして、そのためには、できるだけオープンな意見表明が何よりも求められる。

 例えば、最近ある若手研究者グループの研究論文の雑誌連載が突然中止となったようだが、その方向性がどうであれ、真面目な研究者たちが自由に発言しにくい雰囲気があるとすれば決して健全な状況とは言えまい。

 現に私が主宰している「エネルギー環境Eメール (EEE)会議」でも、連日激しい核燃料サイクル路線論争が繰り広げられている。基本的には核燃料サイクル推進の立場でも、当面再処理は金がかかり過ぎるし、プルトニウムもだぶついているから、六ヶ所工場の操業にはある種の調整が必要だ、その間中間貯蔵も一つの選択肢として十分詰めるべきだ、というような議論もある。

 こうした議論については、反原発、反プルトニウム派に悪用されるから要注意だとの忠告も聞く。右の若手研究者グループは「獅子身中の虫」だと酷評する人もいる。

 私自身彼らの主張にはいささか異論があるものの、彼らはいわば、頑固親父に対して懸命に直言している「孝行息子」ではないかと考えている。たとえその主張に賛成できなくても、十分発言の機会を与え、正々堂々と討論し、その上で、重要な問題点をきちんと整理し、一般国民に現実的な選択肢と判断材料を提示する、その上で国としての進路を最終的に決定し、断行する、これが筋であろう。

 ただ、ここで困るのは、専門家同士の議論でも、核燃料サイクル関連のコスト計算の前提がかなり異なっていることだ。ある程度共通した数字に基いて議論しないと、いくら議論しても不毛に終わる。最近になって経済産業大臣の諮問機関である総合資源エネルギー調査会が、特別の小委員会を設けてコスト評価の検討作業を始めたようだが、その結果も含め、サイクル論議の今後の行方が注目される。