クジラとプルトニウム

国際捕鯨委員会(IWC)の年次会合が、九年ぶりに、日本(山口県下関市)で開催されている。最大の焦点は、調査捕鯨の枠の拡大や商業捕鯨の再開を狙う日本と、米国、オーストラリア、ニュージーランド等を中心とする反捕鯨国との長年の対立がどう展開するかだが、水産庁等の強気にもかかわらず、見通しは相変わらず厳しいようである。

 周知のように、日本の商業捕鯨が最初に国際的批判の矢面に立たされたのは、一九七二年にスウェーデンのストックホルムで開催された歴史的な国連人間環境会議で、日本の反対を押し切って「商業捕鯨一〇年間モラトリアム(一時停止)」勧告が採択されたのが発端である。当時外務省の初代環境担当官であった筆者は、この会議に日本代表として出席し、文字通り四面楚歌、孤立無援の中で惨敗を喫した。そのときのショックと苦い体験を今でも忘れることができず、以来三〇年間、捕鯨や漁業の専門家でもないのに、捕鯨問題には一貫して強い関心を抱いている。

 念のために断っておくが、私は近年では、原子力、エネルギー問題や核戦略・核軍縮問題の専門家として通っているようだが、元々日本で最も古い環境問題の専門家でもあり、三〇余年前に環境庁(現在の環境省)や国連環境計画(UNEP)の創設に参画したり、「かけがえのない地球」という有名なキャッチフレーズを自ら創案したりして、環境マインドの普及啓発に尽力したユニークな(外交官としてはいささか型破りの)経歴を持つ。そのため、今でも自然保護や野生動物保護問題に対する関心の強さでは人後に落ちないと自負している。

このことからも推察されるように、私は日本の捕鯨政策に対しては基本的に批判的である。ただし、私は、欧米の狂信的、感情的な反捕鯨論やひところのグリーンピースのような戦闘的な反捕鯨NGOとははっきり一線を画しており、日本国内の捕鯨推進論者の主張にも一定の理解を持っているつもりである。とくに、特定の鯨は現在では個体数が著しく増加し、人類の漁獲高の四~六倍もの魚を捕食しているので適当に「間引き」する必要があるとか、捕鯨で撤退すればマグロなどの公海漁業にも悪影響ありとする水産庁等の主張には一理無きにしも非ずと考えており、そうした観点も踏まえた新しい国際捕鯨制度構想をかねてから提唱している(その具体的内容は、本欄の範囲から逸脱するし、紙数の制約もあるので、ここでは触れない)。

しかし、戦後の食糧難時代は別として、「飽食・グルメ時代」といわれる現在、鯨肉を食べなければ日本人が生きて行けないとか動物蛋白質の補給に窮するわけではなく、現に若い世代では鯨肉を全く食べたことのない人が大多数であることは各種世論調査で明らかである(その意味で、水産庁等が、鯨肉は牛肉に劣らず美味しいからもっと食べるべきだと宣伝しているのは、本末転倒といわざるを得ない。まして、クジラ肉を食することが伝統的な食文化であると言って済む話ではない。)いずれにせよ、現状では、日本のナショナル・イメージを著しく損なってまで捕鯨を続行しなければならない理由は見つけ難い。偏狭なナショナリズムに走って国の国際的イメージを損なうということは、畢竟「国益」を損なうことである。

ところで、捕鯨問題は一面でプルトニウム問題に似ており、事実、私も三〇年前、ストックホルム会議から帰国後書いたいくつかの啓蒙論文の中で、「捕鯨外交の轍を踏むな。プルトニウム問題への波及を警戒せよ」という警鐘を鳴らしたことがある。果たせるかな、その後グリーンピースなどの国際NGOは日本の捕鯨問題とプルトニウム利用問題を同列にして、盛んに対日攻撃を繰り返していることは周知のとおりである。

この点に関する私見を結論的に述べれば、プルトニウムは、日本の原子力発電の不可欠の一部になっており、原子力発電を継続する限り避けて通れない問題である。そしてーー前回(四月九日)の本欄で書いたようにーーもし原子力発電が当面、日本のエネルギー安全保障や地球温暖化防止の視点から必要不可欠であるとするならば、プルトニウムも不可避であり、これだけを止めるわけには行かないという結論になる。つまりプルトニウム問題は、日本にとって、捕鯨問題とは比較にならないほどの重要性を持つものであり、国際的に批判を浴びているからとか、ナショナル・イメージを損なっているから、という次元の問題ではない。日本のエネルギー安全保障のために必要と言うことであるならば、国際的な批判や非難に臆することなく、自信を持って政策遂行を図るべきであると考える。

 ただし、だからといって、私は、従来及び現在の日本のプルトニウム政策自体に全く問題が無いと考えているわけではない。具体的にどういう問題点があるか、それを次回に論じてみたい。