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イラク人質事件を考える 

  • 執筆:金子熊夫
  • 掲載日:2004年4月20日
  • 掲載紙: 電気新聞・時評

イラクにおける日本人誘拐人質事件は、幸い無事解決したものの、苦い後味を残した。この事件が発生したとき、筆者は偶々モンゴル外務大臣との会談のためウランバートルを訪問中であったが、ホテルでNHKニューズが盛んに報道していた。昨年末の日本人外交官二名殺害事件のときも出張先の米国で第一報を聞き、つよい衝撃を受けたが、どうも今回のイラク人質事件はあの時とは様子が異なっており、最初から違和感を感じた。

二ヶ月前の本欄でもちょっと触れたように、筆者自身36年前、外交官として在勤していた南ベトナムで極限的な体験をした。当時はベトナム戦争の最盛期であったが、一九六八年一月末のテト(旧正月)期間中南北越境界線近くのフエ市に出張していた私は、そこで歴史的なテト攻勢に遭遇、民族解放戦線(ベトコン)・北越軍と米・南越軍の猛烈な市街戦に巻き込まれた。結果的には米軍に救出され辛うじて生還できたが、共産勢力がフエ市を占領していた約十日間事実上軟禁状態に置かれ、彼らと生死を共にしていた。最悪の事態も覚悟し、遺書まで書いたが、そうした状況の中で日夜ベトナム戦争、日米関係、自分の置かれている立場等についてぎりぎりの判断を迫られた。

 当時日本人の大多数は、政府とは別に、米国のベトナム軍事介入に否定的で、反戦運動も活発であった。実は、私自身も大使館で働きながら内心米軍のやり方には同調できず、いつも距離をおいて見ていた。そして、そうした日本人の心情はベトナム人も当然分かってくれていると考えていた。

しかし、一旦戦闘が始まれば、双方とも食うか食われるかで、敵味方の二通りしかない。そうした中で、「佐藤(栄作)親米・軍国主義的政権の手先」である私たちは、ベトコンからみれば当然「敵」であったわけで、いつ殺されても不思議ではなかった。私が殺されなかったのは僥倖としか言いようがない。実際、ベトナム戦争支持の西ドイツ(当時)の外交官や援助関係者の何人かが拉致されるのを私は目撃した(後日死体となって発見された)。

 あれから三〇有余年、内外の情勢は大きく変り、湾岸戦争を経て、ついに今回のイラク戦争では戦後復興への協力という形で陸上自衛隊が派遣された。しかし、私たちは、往々にして、自分は日本政府とは意見が違う、米国のイラク戦争や自衛隊のイラク派遣には個人的に反対だ、だからイラク人を含め中東の人々は日本の一般市民を敵視していないはずだ、と思いがちではなかろうか。とくに若者の中には、ボーダーレスとか世界平和、人道支援という抽象的な概念に幻惑されて、国際政治の厳しさを軽んずる嫌いがある。

 まして、日本は現在、世界第二の経済大国であり、アジア、中東、アフリカ等の人々から見れば、日本人はみんな大変な金持ちということになる。当然身代金を狙った誘拐の対象になりやすい。しかも、過去の実績から日本はテロの脅しに屈しやすいという国際的定評がある。

 今回の人質事件の被害者たちの不注意ないし軽挙盲動を批判するのは簡単だが、問題の根源はもっと深く、複雑である。最も基本は、やはり教育の問題だろう。私は最近、エネルギー環境教育促進の目的で全国各地の中学・高校、大学で講演する機会が多いが、その折に痛感するのは、子供たちが外国の実情をあまりにも知らないこと、仮にある程度知っていても日本国内の基準でしか理解していないことである。

英語教育がこれだけ普及したのに、驚くべき現象である。不況だ、デフレだといいながら今や「老大国」と自嘲するほど経済的に恵まれた国では、もはや世界の現実に通用するような教育は無理ということなのだろうか。

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