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他力本願から自力本願へ 第2次「アトムズ・フォー・ピース」(AFP II)構想のすすめ

  • 執筆:金子熊夫
  • 掲載日:2003年9月29日
  • 掲載紙: アイゼンハワー演説50周年記念会議の開会セッションにおける基調講演

1.はじめに

今年は、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)米大統領が1953年12月8日、国連総会で「平和のための原子力」(Atoms for Peace)と題する重要演説を行ってからちょうど50年目である。この歴史的な演説で本格的にスタートした世界の原子力平和利用活動がその後辿った道は、当初の熱い期待に反して、決して平坦なものではなかった。とくに1970年代の2度の石油危機、米国政府の原子力政策の転換、環境問題と社民勢力の台頭、累次の大規模原発事故、電力市場自由化とそれに伴う原子力発電の経済性の相対的低下等々の結果、欧米では原子力は今や概ね衰退傾向にある。これと対照的に、日本では、エネルギー安全保障上の必要から一貫して、準国産エネルギーである原子力重視政策を堅持してきたが、その日本の原子力も近年種々の原因により厳しい逆風に晒されており、前途に暗雲らしきものが漂っているのが現状である。

他方原子力の平和利用と表裏の関係にある軍事利用、すなわち核兵器開発の分野でも、この50年間、国際原子力機関(IAEA)の創設、核不拡散条約(NPT)体制の成立等々一定の前進があった反面、際限なき核軍拡、核兵器国の拡大、インド・パキスタンの核実験(1974、1998年)、さらに最近の北朝鮮、イラン等の核開発疑惑、その結果としてNPT体制の空洞化等々、深刻な問題が山積している。このような状況が一層進行すれば、原子力平和利用自体にとっても大きなダメージになる惧れがある。

このような厳しい状況の中で、我々はいまこそ50年前の原点に立ち戻って、原子力平和利用の意義を問い直し、過去から学んだ教訓を今後の50年にどう生かして行くか、そしてそのためには我々自身がどう変革しなければならないか、について真剣に模索する必要がある。これがまさに今回のAFP50周年記念会議(日本原子力学会主催)の基本的命題であるが、この命題に入る前に、まず過去50年に及ぶ原子力平和利用の軌跡を簡単に振り返っておきたい。

2.米国における50周年記念国際会議等

アイゼンハワー大統領の"Atoms for Peace"演説50周年の今年、これを記念する国際会議やシンポジウム等は世界各地でいろいろ開催されているが、その中でとくに注目されるのは、米国のローレンス・リバーモア国立研究所(Lawrence Livermore National Laboratory=LLNL)が主催する一連の会議である(表1)。この会議は、「50年後の『平和のための原子力』:新たな挑戦と機会」(Atoms for Peace After 50 Years: New Challenges and Opportunities)と題して都合5回――第1回は4月初めサンフランシスコ近郊のローレンス・リバーモアで、第2回は5月日本・静岡県の御殿場で、第3回は7月フランス・パリ近郊のサクレーで、第4回は9月ワシントンDCで、そして最後の第5回会合は11月半ば再びローレンス・リバーモアで――開催された。

マンハッタン計画(原爆製造計画)の本拠地、ロスアラモス国立研究所(LANL)に次いで2番目に古く、核兵器とりわけ水爆研究で有名なLLNLの世界安全保障研究センター(Center for Global Security Research=CGSR)が主催するこの会議には、毎回、全米各地から核・原子力問題の専門家や研究者が多数集まった。ワシントンからは国防総省、国務省、ホワイトハウス等からも現役の担当官が個人的資格で参加していた。中には、第二次世界大戦末期のマンハッタン計画の生き残りや、実際にアイゼンハワー演説の起草に係わった高齢の科学者等の顔も見え、貴重な体験談や薀蓄を披露していた。全般的に共和党系の学者や研究者が多いように見受けられたが、民主党系の人々もかなりおり、彼らの多くは歴代政権でそれぞれ核・原子力問題を担当した実務経験を持つ。

海外からは、ヨーロッパ(英、仏、ロシア等)やアジア(インド、韓国等)から相当数の専門家が参加したが、日本からの出席者は、第1回の場合、イラク戦争に伴うテロの危険やSARS騒ぎの最中だったためか参加を取り止めた人もいて、結局筆者一人だけであった。第2回目は当然日本人参加者は多かったが、それ以後は数名程度であった。ちなみに、9.11事件以後米国の政府系の研究機関では警戒態勢が厳しくなっており、LLNLでは出席者のセキューリティ・チェックに神経質的と思われるくらい注意を払っていた。このため出席者は特別に招待された人に限定され、一般の傍聴者は皆無であった。

3.アイゼンハワー演説の歴史的背景

ところで、アイゼンハワー演説は、日本では専ら原子力平和利用を提唱したものとして記憶されているが、実際には、平和利用問題は演説の最後の部分に出てくるだけで、軍事利用(核管理)問題が中心命題であった。

すなわち、1945年7月ニューメキシコ州のアラモゴールド(Alamo Gordo)で最初の核実験に成功したとき米国は、この人類史上かつてない巨大なエネルギー技術を軍事機密として、その完全独占を意図したが、僅か4年後の1949年にソ連も核実験に成功した。同年米ソの冷戦がスタートした(表2)。

当時米ソ両国は、誕生したばかりの国連を舞台にして、核(原子力)の国際管理方法を巡って鋭く対立していた。国連総会の決議第1号は「国連原子力委員会」(UNAEC)の設置に関するものであったが、結局同委員会は僅か3年弱の短命に終わった。トルーマン政権下でD.アチソン(Dean Acheson)国務次官とD.リリエンソール(David Lilienthal)初代米国原子力委員長(前TVA総裁)がまとめた核(原子力)国際管理構想は、後にB.バルーク(Bernard Baruch)国連代表による「バルーク提案」という形で国連原子力委員会の審議に付されたものの、拒否権問題などが絡んで、米ソ交渉は暗礁に乗り上げていた。

他方、マンハッタン計画を通じて核・原子力情報を得ていた旧連合国の英国やカナダでは、戦後直後から原子力の平和利用研究が進んでおり、それぞれ独自の原子炉の開発に着手していた。そこで、米国は、それまでの政策を一転し、まず商業用原子力発電への道を開くために原子力法(マクマホン法)を改正した上で、原子力潜水艦用の原子炉技術等をベースに独自の軽水炉開発を進めると共に、原子力平和利用、つまり原子力発電の分野でも世界の主導権をとるため、新しい国際制度の創設を唱え始めた。

米国が最初に考えたのは「国際原子力開発公社」(International Atomic Development Authority)構想で、機微な技術やウラン燃料等はすべて公社のみが所有、管理するとしていた。しかるに、この構想がまたしてもソ連の反対で不発に終わると、次善の代案として、「国際原子力機関」(IAEA)構想をまとめ、それを1953年のアイゼンハワー演説で打ち上げたのである。

当初の米国構想(バルーク提案)では、核物質等を一旦すべて国際機関にプールし、それを希望国に貸与する方式を想定していたが、1957年に創設されたIAEA制度下では、各国間の妥協の結果、核物質や原子炉は生産国(製造国)から直接輸入国に移転され、IAEAは、当該核物質が軍事転用されることを防止する機能、すなわち「保障措置」(査察を含む)(safeguards)だけを受け持つことになったのである。(もっとも憲章上はIAEAから供与されるシステムも残されているが、初期の一時期を除き、このシステムは事実上あまり利用されていない。)「保障措置」だけで核物質の軍事転用を防止できないことは、

上記アチソン・リリエンソール報告の段階ですでに明確に指摘されていた。

 今にして思えば、当初米国が考えた国際原子力開発公社ではなく、「次善の策」に過ぎないIAEAが創設されたこの時点で、核の軍事転用=核拡散が比較的起こりやすい国際制度が決定されてしまったわけである。勿論、その後1968年の核不拡散条約(NPT)の成立や、イラク問題を契機とする「追加議定書」の作成等によりIAEA保障措置は格段に改善されはしたが、「パンドラの箱」から出てしまった核エネルギーを完全に管理し、核拡散を防ぐことは所詮不可能である。すでに「事実上(de facto)の核兵器国」の地位を確立したとみられるインド、パキスタン、イスラエルは言うに及ばず、今日最大の国際紛争の原因となっているイラク、イランや北朝鮮の核開発問題の存在がそのことを如実に示しているといえよう。

4.アイゼンハワー構想の今日的評価

 さて、今次LLNL会議やその他の米国研究所等の主催の諸会議では、過去50年間を振り返って、果たしてアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」構想は成功であったとみるべきか、あるいは失敗であったとみるべきかが最も基本なテーマの1つであったわけであるが、以上のような歴史的背景に鑑みれば、米国人参加者の間では、同構想は結局のところ「失敗」であったという点で暗黙の合意がみられたことはいわば当然のことである。

 思うに、アイゼンハワー構想が国際的に失敗であったかもしれないという否定的な評価は、相当昔から米国内には存在していた。とくに1974年のインドの第1回核実験後登場したカーター政権(1977~81年)は、自ら商業用再処理と高速増殖炉開発計画の放棄を宣言するとともに、世界各国に呼びかけて、「国際核燃料サイクル評価」(International Nuclear Fuel Cycle Evaluation=INFCE)と称する大掛かりな国際的作業を実施した。米国主導により1977年末から2年半にわたって遂行されたこのINFCE作業は、まさに、アイゼンハワー構想に関する米国自身の苦い反省に基づき、原子力開発を巡る国際制度や技術的問題を抜本的に再検討し、原子力平和利用活動に一定の枠を嵌めようという試みであった。結果的に、しかし、INCFE作業は、日本と当時原子力発電に前向きであった英、仏、独等との連携プレーによる懸命の巻き返しによって、米国の当初目標とは逆の結論――すなわち、一口で言えば「核拡散防止と原子力平和利用(とくに核燃料サイクル)活動は技術的に両立し得る」という結論――に到達したわけである。

その間、日本は、たまたま同時期(1977年)に建設工事を終え将に試運転を開始しようとしていた東海再処理工場(旧動燃事業団経営)の運転問題を巡って激突、厳しい対米外交交渉を重ねた。この歴史的な東海再処理交渉は、アイゼンハワー構想に呼応して4半世紀ひたすら原子力平和利用の道を邁進してきた日本が、エネルギー安全保障確立の旗印を掲げて米国と真正面から対立した最初の原子力外交であったが、INFCEの肯定的な結論等に支えられて、その後足かけ10年に及ぶ難交渉の末、ついに対米説得に成功、新日米原子力協力協定(1988年発効)の下で、独自の核燃料サイクル政策を進める権利を確保するに至った(表3、表4)。ところが、身を削るような外交交渉の結果米国から再処理(国内、海外)、濃縮、プルトニウム利用に関する「フリーハンド」を獲得し、いざこれからというときに、今後は国内の度重なる事故や不祥事によって国民の不信を招き、自ら原子力発電(とりわけ核燃料サイクル活動)を窮地に追いやってしまった現在の状況は、当時創設されたばかりの外務省の初代原子力課長として直接日米交渉を担当した筆者の立場からみても、いかにも不本意、残念な状況と言わねばならない。

一方欧米原子力先進国のその後の動きについては、まず米国の場合、カーター政権時代に発生したTMI事故(1979年)を契機に、またフランスを除く大半の西欧諸国の場合は、旧ソ連時代に突発したチェルノブイリ原発事故(1986年)の激震の影響と地球環境問題意識の高まりの中で、軒並み原子力平和利用に消極的な機運が醸成され、一部の国では「脱原子力」への政策転換が進んでいる。

もっとも、米国では、エネルギー重視のブッシュ政権の登場(2001年1月)により、原子力発電の位置付けが急上昇しており、今後米国内で原子力再生の動きが本格化する兆しも出てきているが、にもかかわらず、予見し得る将来、米国の核燃料サイクル政策が大きく前向きに変わる可能性は乏しいと見ざるを得ない。さらに冷戦終了後、中東や北東アジアを中心に多発している地域紛争に核兵器問題が絡んでいることから、米国は原子力平和利用活動に起因する核拡散問題に一段と厳しい態度をとっているが、それに9.11事件(2001年)後は核テロ攻撃に対する警戒心も加わって、各国の原子力平和利用(とくに核燃料サイクル)活動に益々神経質になっており、それは同盟国である日本の原子力活動に対しても例外ではないということを十分認識しておく必要がある。

5.日本のとるべき道:「AFP-II構想」のすすめ

 以上のような事情からして、米国が原子力平和利用に否定的な姿勢を強めることはある程度止むをえないところであるが、しかし、過去50年間原子力平和利用の"模範生"を自認し、独自の核燃料サイクル路線の確立を目指して必死の努力を重ねてきた日本の立場からすれば、アイゼンハワー構想が失敗であったからと言ってそう簡単に引き下がるわけには行かない。けだし、彼我のエネルギー事情(とくに国産エネルギー資源量)に巨大な隔たりが存在することは、日米戦争(1941~45年)前の昔も21世紀の今も、基本的に変わりないからである。

ただ、20年前のINFCE当時と較べても時代状況は色々な点で大きく変化しており、もはやエネルギー安全保障論だけでは国内的にも国際的に十分な納得を得ることは難しく、しかも、かつて同志であり「戦友」であったドイツ、ベルギー、スウェーデン等西欧諸国で脱原発の動きが加速している今日、当然のことながら、日本の原子力平和利用は日本自身の手で守らなければならない。このような時代状況を客観的に認識し、これまでの他力本願的体質から自力本願的体質に早急にギアチェンジをすべきであり、その上で、今後は日本こそが世界の原子力平和利用を引っ張って行くのだという気概を持つことが何よりも必要である。

実は、今回のAFP50周年記念会議(日本原子力学会主催)も、そうした真摯な問題意識の中から生み出されたものにほかならない。我々は、今一度「エネルギー資源小国にとっての原子力の重要性」という原点に立ち戻り、自らの50年の実績を謙虚に回顧、反省するとともに、そうした反省を踏まえて、今後の50年間に向けた長期的な展望を拓く必要があり、そのための周到な理論武装を急がねばならない。

しかも、そうした努力は、単に日本自身の国益のためだけではなく、近い将来深刻なエネルギー問題を抱え、世界規模での「資源争奪戦争」に巻き込まれる惧れすらあるアジア諸国のエネルギー安全保障という観点からも必要なものである。すなわち、日本は自国内でできる限り原子力発電を維持、拡大し、化石燃料への依存を減らすことにより、地球温暖化防止のみならず、アジアのエネルギー安全保障、ひいては世界の平和と繁栄に貢献することができるのであり、そのような意味では、日本が原子力平和利用路線を引き続き堅持するのは国際的な責務でもあると言っても過言ではない。

さらに、今一歩踏み込んで言えば、近年日本を取り巻くアジアでは、北東アジア(日本、韓国、台湾、中国)に加えて、東南アジアでも、長期的なエネルギー・電源開発計画に基づき、原子力発電を導入したいと考えている国がいくつか現れており(ベトナム、インドネシアなど。表5)、これらの国々に対して適切な指導と支援を行うことは、域内の原子力技術最先進国としての日本に課せられた義務であることも自覚すべきであろう(表6)。

以上のような観点に立てば、今後の50年に向けた我々の活動のスローガンとしては、「第2のアトムズ・フォー・ピース」(Atoms for Peace, Phase II)、あるいは「アジアのための新しいアトムズ・フォー・ピース」(New "Atoms for Peace" in Asia)という捉え方も十分成り立つであろう(表7)。いずれにしてもアイゼンハワー演説50周年というこの歴史的な節目に際し、我々は今一度衆知と勇気を結集して「原子力平和利用のルネッサンス」の実現に向けて創造的な第一歩を踏み出す努力をなすべきであろう。

(注)表1~7は、本件会議冒頭の基調講演の際筆者が使用したOHPの一部であるが、本文の説明を補足するものとして併読していただければ幸いである。

 *筆者紹介:

元キャリア外交官、初代外務省原子力課長、前東海大学教授(国際政治学)、現在エネルー環境外交研究会会長、エネルギー環境Eメール会議(EEE会議)代表、外交評論家。ハーバード大学法科大学院卒、66歳。 

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