親亀こければ子亀も・・・

 この文章が読者諸賢の目に触れる頃には、筆者はベトナムへ行っている。今回のベトナム行きは12月末までの2ヶ月間で、目的は、国際交流基金派遣の客員教授として、ハノイの日本研究センター(国家社会科学委員会傘下)や大学等で「日本の外交政策」について講義と講演をすることである。

 なぜベトナムかと不審に思われるかもしれないが、実はベトナムは、私の人生において特別の重要性を持つ国である。今から36、7年前、まだ駆け出しの外交官の頃、1966年から2年間余、旧南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)にあった日本大使館で政務担当書記官として勤務した。当時はベトナム戦争の最も激しかった時期で、文字通り死と隣り合わせの日々であった。

事実私は、ベトナム戦争のハイライトとも言うべきテト攻勢(1968年1~2月)の際たまたま、南北ベトナムの軍事境界線(北緯17度線)のすぐ南の古都フエに出張中で、そこで北越・べトコンと米軍の間の猛烈な市街戦に巻き込まれ、約10日間死線をさまよい、危うく「戦後日本外交官殉職第1号」になりかけた、という貴重な体験もした。
 そういうわけで、ベトナムは私にとって深い因縁の地、いわば「第2の故郷」であり、以来今日に至るまで―ある意味での「贖罪」の気持をもこめて―公私両面で日越友好関係の増進にいささか貢献している次第である。今回の訪越もかなり前から計画していたもので、発展著しいベトナムの人造り、国造りのお手伝いをして来ようと考えている。
 ところで、そのベトナムでは現在、原子力発電の導入計画が進んでおり、各国の原子力関係者の熱い視線を集めている。もっとも、東南アジアで原発導入を試みたのはベトナムが初めてではない。これまで少なくとも3カ国がそれに挑戦して挫折した歴史がある。

 1番バッターはタイで、早くも1970年代初めに原発計画を策定したが、その後シャム湾に海底油田が発見されるや棚上げとなってしまった。(ただし、タイ電力公社は原発計画を断念したわけではなさそうだ。)

次がフィリピンで、マルコス政権下の1970年代半ばに、米国WH社製の軽水炉(出力60万kw)を二基バターン半島に建設し始めたが、途中でTMI事故(1979年)が発生したため、米国原子力規制委員会(NRC)の安全基準が強化され、契約の再交渉を余儀なくされた結果、当初の価格約10億ドルが一気に2倍に跳ね上がった。この金策の無理が祟ってマルコス大統領自身が不正蓄財疑惑に巻き込まれ、1989年失脚したため、せっかく80%方完成していたバターン原発は廃棄処分となってしまった。私は外務省の初代原子力課長として、2度建設中の現場を視察したが、全く勿体無いことをしたものである。

3番バッターはインドネシアで、1980年代初めから、実力大臣のハビビ研究技術相(後に大統領)の指揮の下で、原発計画が強力に推進され、ジャワ島中部のムリヤ半島に2003年頃から数基の原発が順次建設されるはずであった。

日本からは私自身はもちろん、多数の原子力研究者が現地で技術指導に当たった。ところが、関西電力系のN社がコンサルタントになり、いよいよ1号機の国際入札が開始という時になって、突然東アジアを襲った金融危機(1997年夏)の直撃を受け、あっという間に経済だけでなく政治も大混乱に陥り、ハビビ大統領失脚とともにムリヤ計画も頓挫してしまった。(但し、この9月のIAEA総会で同国代表は、2015年に1号機運開を計画中と発言した模様)

 このような失敗のあとだけに、ベトナムには是非成功してもらいたいと思い、長年私も個人的にベトナム政府の原発導入計画を支援してきた。今回のハノイ滞在中も本業の外交政策講義の傍ら、できるだけの支援活動を行いたいと考えている。

 ただ、ここで困るのは、従来原子力技術の最先進国と自他ともに認めてきた日本で、近年原子力事故や不祥事が相次いだために、東南アジア諸国の日本に対する信頼感に動揺が見られることである。まさに「親亀こければ子亀もこける」というところだ。この続きは、来月ハノイからお伝えしよう。